何も見えない
何も聞こえない
誰かの優しささえ
拒んでしまう
東日本大震災
そんな
あの日から
6回目の
3月11日を
先日
迎えました
毎日
更新していたブログも
なぜだか
あの日だけは
更新できずにいました
何かを書き記すべきか
何もしないでおくべきか
もちろん
正解も
答えもありませんが
ふと
そんな事を考えていた
6回目の
3月11日
今回のお話しは
私の
東日本大震災と野球
いったい
そんなものが
繋がっているのか
どうなのか
よくわからないまま
書き始めています
そして
取り留めもなく
少し長くなります...
先日の
グラウンドコートの
お話しはこちら
東日本大震災
以降
少年野球の世界に
お世話になってから
ユニホームの
デザインについて
今年を含め
2回ほど
検討させて頂く
機会がありました
いつも
私なりに
思いを馳せながら
色々と
考えては見るものの
伝統という
偉大な観点から
大きな部分は
変えられずにいます
そんなの
当たり前ですよね
とはいえ
逆に
当チームほど
他様には
気付かれない程度に
マイナーチェンジを
繰り返している
チームもありません
創部23年の
歴史の中で
胸のマーク
以外
すべて
ユニホームの
デザインが違うんですよ
もちろん
今年の
デザインも同様です
そんな中
舞い込んで来た
ありがたい
グラウンドコートのお話し
ここは
思い切って
オリジナルデザインでも
いいのではないか
そんな
勝手な気持ちも
自分自身への
プレッシャーに
繋がって
いたのかもしれません
結論から言うと
チーム名の頭文字に
かぶせるように
石巻
いしのまき
ISHINOMAKIを
押し出しました
考えながら
最後はシンプルな
デザインとなりました
私は
産まれ育った
南三陸町が嫌いで
生活の基盤を築き
一生を過ごすのであろう
縁もゆかりもなかった
ここ
石巻市が嫌いでした
そんな
年がら年中
思春期なような
自分でしたが
東日本大震災
何もできず
誰も助けられず
何をしているのか
わからないまま
今を生きています
たとえば
社会人野球チーム
日本製紙石巻硬式野球部は
数年前から
スコアボードの
チーム名を
企業名の
日本製紙から
傷付いた街
石巻へ
全国からご支援頂いた
石巻へ
風化しないよう
感謝を忘れないよう
表記を
変更しています
たとえば
あの日を越えた
高校球児たち
石巻工業高校が
春の選抜高校野球
甲子園へ
21世紀枠で
出場した日
あきらめない街
石巻を掲げ
白球を追った
子供たち
そんな
子供たちの姿に
石巻の文字に
勇気と
元気と
涙と
感動を頂きました
たとえば
東日本大震災を
目の当たりにしながら
それ以降
何もできずにいる
無力でどうしようもない
一人の人間が
何かを感じ
何かを思い
何かを発信し
何かを背負いたいと
独りよがりを
繰り返しているならば
ごめんなさい
もう
少しだけ
そのワガママに
お付き合いください
この
デザインにあたって
子供たちに
お話しした事
あなた達のおかげで
このグラコンがあります
胸のマーク
ISHINOMAKIは
石巻地域で
私たちしか
掲げる事ができません
ISHINOMAKIに
勇気と自信と
責任と誇りを持って
歩んでいこう
この話しが
どこまで伝わったか
わかりません
今
私にできる事
感謝の気持ちと
笑顔と楽しさを忘れず
私たちらしい
野球遊びを
これからも
続けていきたいと思います
皆さん
これからも
よろしくお願いします