甲子園への道
宮城県で
熱戦が繰り広げられる
全国高等学校選手権宮城大会
私も元高校球児でした
田舎生まれの異端児は
右も左もわからないまま
名門に押し込められた春
3月の対外試合解禁日に
即デビューしました
ただただ
目の前の出来事を
こなすだけだった日々
家族が観戦に来てくれた
4月の入学式前には
高校通算第1号の
ホームランを打ちました
遠征メンバーにも選ばれ
夏の大会
直前の試合にも
スタメンとして結果を残しました
が
1年生でのレギュラー
そして
ベンチ入りはかなわず
新チームの
秋へと移行しました
不動と思われたポジションは
不動だった先輩の
まさかのコンバートにより
流動的になり
グズついたまま
ひたすら練習を重ねたあの頃
今
振り返っても
あの当時は
本当になんだったのかなと
感じてしまう1年間
すぐにやって来た
2年生の秋
中途半端に終わった
2年生の秋
そして
指導者とぶつかった
2年生の冬
仲間にも指導者にも
お世話になった皆さんにも
なにより
両親にも家族にも
ご迷惑をお掛けしました
住まいを飛び出し
野球を投げ出し
荒くれていく心
皮肉にも
支えてくれたのは
仲間と指導者と
両親と家族でした
結局は
自分一人では
何も出来ないんですよね
今思うと
本当に幼く
恥ずかしい記憶です
野球から
離れる覚悟を決めた日
ワシの事は嫌いになってもいい
でも
野球の事は嫌いになるな
と言ってくれた監督の言葉
今でも忘れません
長いようで短かった
充電期間を経て
一度
野球から離れた私は
選手を諦め
マネージャーとして
3年生になる春に
復帰させて頂きました
ケジメとして
選手としての
プレーを拒み続けた日々
そして
私の本音を
見透かしていた指導者
3年生の春の大会に
前代未聞の出来事として
プレーヤーでもないのに
強引に背番号を与えてくれました
俺の背番号を返せ、と
メンバーを外された同級生の
スタンドからのヤジは忘れられません
歪み続け
拒み続けた監督からの気遣い
最後の夏も
ベンチで戦えと
ありがたいお言葉を頂きました
苦楽を共にして来た仲間も
賛同してくれた
最後の夏の
ベンチ入り
それすらも
私には資格がないと拒みました
ならば
甲子園に行ったら
絶対ベンチ入りさせるからと
通行手形を頂いた
最後の夏
宮城大会決勝戦
あと一歩で
涙を呑みました
あれから十数年
必死になって仕事を覚え
なんとく野球を続け
家族を持ち
責任が増え
アマチュア野球
社会人野球の最高峰
都市対抗野球大会へ
出場する事が出来ました
その間に
たくさんの
ライバルや後輩たちが
プロ野球の世界へと
羽ばたいて行きました
私は
高校時代
さほど
輝く事が出来ませんでしたが
皆さんのお陰で
今があります
すでに
名将として名高い
監督には
恐れ多くて
こんなお話しは出来ませんが
先生のお陰で
私の今があります
高校球児の皆さん
今がすべてで
今がすべてじゃない
がんばれ
そして
お疲れ様でした